●「金田一耕助の冒険」は駄作か?(ネタバレあり)

 数ある金田一耕助映画の中でも、1979年、映像金田一ブームのさなかに角川映画が大林宣彦監督と組んで作った「金田一耕助の冒険」(配給=東映 制作=三船プロ 同時上映=松田優作の「蘇える金狼」)は、駄作、怪作の評判が高く、邪道のように言われることが多くあります。一部の横溝ファンの間では、こよなく愛されているのですが。
 私は、大林宣彦監督のファン(信者に近いですね)でもありますので、この評価を大変、残念に思っております。というのは、この映画は、日本でも珍しい、探偵論の映画だからです。その辺、メタ・ミステリとも呼べるのですが、私はこの用語を好みませんので、悪しからず。
 具体的にそれがはっきりするのは、事件が解決した後の、古谷一行演ずる金田一耕助の長いモノローグです。ちなみにこの映画は、斉藤耕一・中野顕彰が脚本を書き、つかこうへいがダイアローグ・ライターを務めましたが、大林宣彦の映画では、脚本通りに撮られているものは少ないため、この長ゼリフを、誰が書いたのかは判然としません。私の感じでは、つかこうへいの思想が入っているような記がしますが、たぶん大林宣彦が改変を加えているのではないでしょうか。両者の思想が交錯しているように思うのです。
 さて、そのセリフとは、こういうものです。
 事件を解決した後、それでも時代遅れの探偵として、さんざんコケにされた金田一耕助は、CM撮影の椅子に座って、語り始めます。

「だいたい事件ってのは、一から十まできっかり収まるところへ収まるってもんじゃないですよ、現実には。……どうしたって、矛盾が後に残るもんなんですよね。それをワンパターンだって言われりゃあ、立つ瀬ありませんよ。
 ……日本の犯罪ってのは、どうしたって、家族制度や血の問題が絡んできちまうんだ。それは、――日本の貧しさなんですよね。――等々力(とどろき)さん。探偵ってのはね、一つの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。一つの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもう一つの殺人を生むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。
 ……私だってね、事件の途中で犯人を予測することはできるんだ、でもね、でも、……むやみに犯行を阻止すべきじゃないって気がするんですよ。事件ってのは、ひとり歩きしますからね。ただ、それを暖かく見守ってやる気持ちが必要だと思うんです。……一つの殺人に触発されてもう一つの殺人が起こる、……犯罪ってのは、――成長しますからね!
 それに私、日本のおどろおどろしい殺人って好きなんです。――毛唐みたいに、ピストルバンバン撃ち合う、あしたの殺人と違って日本の殺人は、過去の魑魅魍魎を払い捨てるための殺人なんです。……人を殺せば殺すほど、絶望的になって行きますもんね、日本の犯人は。世界じゅうどこ捜したって私ひとりですよ、犯人の気持ちを思いやる探偵なんてのはね」
(脇の人間のセリフ)「いいじゃない、売れてるんだから」 (脇の人間のセリフ)「はい、本番行くわよ」 「(振り払うように)私ね、こんなもんじゃまだまだ満足しませんからね。富士子や、森(この映画の登場人物)あたりじゃとても満足しませんからね。もう、四人も五人も死んでるんだ、もう一波乱も二波乱もあってもいいじゃないですか! 私だって、ちっとは名の知れた探偵なんだ。このまま、もし終わるようだったら……等々力さん! 次は、あなたを犯人に仕立て上げる気でいますよ。私たちはそのためにここに登場してるんですからね!」

 ここに語られたことは、ミステリファンの間で、ときに冗談半分で話される、金田一耕助の問題──即ち、金田一耕助はなぜ、事件を途中で阻止できないのか、という疑問への、一つの解答です。それが正しいかどうかは別として、金田一耕助論、あるいは大きく言えば、日本のミステリ論にもなっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。
 しかし実際、名探偵というものが、すべからく事件を「見守って」いるわけではないのです。明智小五郎は、かなりの事件を、犯人の最終目的が達成される以前に阻止していますし、海外には、M.P.シールの生んだ名探偵モンク(創元推理文庫「プリンス・ザレスキーの事件簿」に収録)のように、まだ起きてさえいない事件さえ解決してしまう探偵がいるのです。
 これに対して、金田一耕助は、多くの事件で、全てが終わった後に事件を解説する、解説者になっていることがあります。しかし、それは果たして無能なのでしょうか。連続殺人を「見守りたい」読者の心理を代弁しているのではないでしょうか。
 こういうことを、敢えてつっこんだ映画は、珍しいように、私は思うのです。

 もう一つ、この映画の優れた部分があります。
(以下、ネタバレあり)



 この映画の重要な登場人物は、吉田日出子扮する宝石商の妻ですが、彼女が、若き日には絶世の美女(大林監督は、これを自作の縁で、山口百恵の石膏像で表わしています)だった、というのが、大きな仕掛けになっています。
 当時の関係者から聴いた話では、当初、大林監督は、この役を大屋政子に持ち込んだのだそうです。
 かつての山口百恵が、今は大屋政子の容姿になっていることの(故・大屋政子さんには悪いですが)残酷さと意外さ、そして、それにも関わらず持ち続けている執念、これは、横溝正史も、また、横溝が影響を受けたアガサ・クリスティーも手がけている、しかし、オリジナルのアイディアです。
 何しろこの映画の原作は、金田一耕助(たしか)唯一の未解決事件「瞳の中の女」という短編なのですから。
 そこに、オリジナルの、しかし原作者のスピリットを活かしたストーリーを盛り込んだこの映画を、私はこよなく愛しています。

 もっとも、このような思い入れを抱かない人にとっては、当時の映画やCMなどの、そして角川春樹自身をもパロディ化した、ふざけた部分と奇妙な映像が、目につくだけかもしれません。
 しかし、上に述べたようなことから、ただの怪作とは思って欲しくないのです。
 そして、数々のギャグ・パロディの中には、くだらない(と私でさえ思う)ものもありますが、例えば、角川春樹が横溝正史の所に原作料をジュラルミンケースで持ってきて(いずれも本人)、開けてみた横溝正史が、「中身は薄いですな」と言うという、当時の角川映画の評価をそのまま採り入れた、自己批評も入っていることは、忘れてはいけないでしょう。それを入れた大林宣彦も大林宣彦ですし、許したばかりか自ら演じた角川春樹も角川春樹です。あくまで、いい意味で。
 ちなみに、また話が転じますが、この映画、いわゆる「大林組」ではない、三船プロの制作、撮影は「八甲田山」の木村大作ですが、撮影中、スタッフ・キャストとも、自分が今、何をやっているのかまるで分からなかったそうです。ラッシュで大林宣彦がつなげて見せて、初めて、「ああ、こういう映画だったのか」と分かったそうで、奇妙な映画であることには間違いはありません。
 横溝ファンは、その意図するところを汲み取っていただき、そうでない方も、不思議な映像を楽しんで欲しいと思います。(2003.06.12)



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